左義長祭の由来と歴史
日牟禮八幡宮の左義長祭は、毎年三月十四、十五日に近い土日曜日(雨天決行)に行われます。左義長は、もとは中国から伝わった正月行事です。わが国では仁明天皇承和元年に、鎮護国家、五穀豊穣を祈る祭りとして行われるようになりました。
安土城下でも毎年正月に祭りが行われており、信長記には「織田信長安土において毎年正月盛大に左義長を行い、自ら南蛮笠を被り、紅絹にて顔を包み、錦袍を着け、異粧華美な姿で踊り出た」として、自ら祭りに参加する信長の姿についての記述が残されています。信長亡き後、豊臣秀次が八幡城を築き、安土から移住した商人等により城下町が開町されました。
その移住してきた人々が、既に四月に行われていた氏神八幡宮の例祭「八幡祭」の荘厳さに驚き、これに対抗し、開町による新進気鋭の悦びと感謝の意を込めて、厄除・火防の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を八幡宮に奉納することとなったと伝えています。
左義長の姿形
左義長は「十二段祝着」と言われます。本体部分には、新藁を美しく十二段の段状に重ね、高さ約三メートルにおよぶ三角錐状の松明と杉葉の頭を付けます。さらにその上部には青竹(もしくは笹)を据え付け、短冊型の赤紙、扇やくす玉などで飾り付けます。
さらに胴体と青竹を繋ぐ部分に「頭」を作ります。頭は緑色の杉の葉で作り、藁で編んだ「耳」を三つ、それぞれに御幣を差します。もう一つ、頭の上に「火のぼり」という御幣をつけます。祭りのクライマックス、左義長を奉火する時には、この火のぼりから火をつける習わしとなっています。
左義長の中心正面には「だし」を飾り付けます。
毎年、干支や時局にちなんだテーマを各町内で考案します。主として干支の動物を題材にした造物を俗に「むし」と呼び、据えつける背景となる円形・扇形・方形などの部分は単に「台」と呼びます。このむしと台を合わせたのを左義長の「だし」と呼びます。
だしは穀物や海産物、地元特産品を使い、その自然色を生かして制作します。これが、左義長の晴眼とも呼ぶべき部分です。費用を惜しまず趣向を凝らし、各町内は名作を競い合いながら郷土芸術の誇りとしています。
左義長祭の祭次第
金曜日に、奉納順を決める御鬮(みくじ)祭があります。
土曜の昼には「担ぎ棒」を通した左義長が宮入り、奉納順に勢揃いした後、神職・神役・稚児が先導して全左義長が旧市街を列になって渡御します。左義長の担い手は踊子(おどりこ)と呼ばれていて、踊子は揃いの踊半纏(おどりはんてん)を着て美しく化粧し、手に拍子木を持ち、紅白の鼻緒の下駄を履いて「チョウサ、ヤレヤレ」「チョウヤレ、ヤレヤレ」と威勢よく声をかけ合いながら担ぎ踊ります。帰宮後、左義長だしコンクール結果発表表彰式があり、終了後各々の宿に帰り、宿にて「だし飾り」が行われます。
日曜日は、午前中本殿にて祭典。午後より各左義長が旧市街を自由に練り歩きます。旧市街の狭い道幅を勝手気ままに練り歩くため、奇祭の本分が見られることでしょう。
旧市街を練り歩いた左義長は、日の暮れかかる頃に境内へ到着。到着後は、事前のくじ順に従って奉火し、神に捧げられます。次々と炎上する左義長で馬場は一面火の海と化し、人々の祈りが歓声と踊りに包まれて、早春の夜空に燃え上がります。
- 昭和三十三年(一九五八) 滋賀県無形民俗文化財に選択
- 平成三年 (一九九一) 滋賀県無形民俗文化財に指定
- 平成四年 (一九九二) 国選択無形民俗文化財に選択
日程
前日金曜日
- 午後1時30分
- 御鬮(みくじ)祭
- 午後2時30分~
- 左義長宿、左義長清祓式
第一日目土曜日
- 午後0時30分まで
- 宮入り
- 午後1時~
- 渡御神幸祭・左義長だしコンクール審査
- 午後1時30分
- 渡御出発
- 午後5時30分頃
- 渡御帰着・渡御還幸祭
左義長だしコンクール審査発表・表彰式 - 午後6時
- 左義長宿入り、各左義長宿にてダシ飾り
第二日目日曜日
- 午前10時
- 左義長大祭
- 午前中から夕方
- 左義長自由げい歩
- 午後6時
- 子ども左義長奉火
- 午後8時
- 左義長5基一斉奉火
- 午後8時20分~
- 奉納順にて6番以下順次奉火
- 午後10時40分
- 最終の左義長を奉火